井上有一は紙と墨という伝統的な材料と技法を使いながら従来の形式に囚われることなく、ただひたすたに自由な表現を試み、書というものを芸術までに昇華させた戦後日本において創造的な活動を展開した書家である。「元気に自由に書くのが良い」と語り、墨をたっぷりふくませた大きな筆を使い、身の丈より大きな和紙に向かって等身大に書かれた生命力あふれる一字は字としての形は維持されているものの書という概念をこえ、まるで絵画や彫刻をみているような感覚を覚える。井上の代表的な作品に、漢字の一文字を大きく書いた一字書がある。「月」、「花」、「夢」、「心」「塔」など実に様々な字が書かれているが、とりわけ「貧」の一字は、井上の精神性を象徴する代表作として「貧」に特化した図録・文献の発行や展覧会が行われるほど重要な文字として位置づけられている。作品を眺めていると「貧」は文字ではなくまるで一人の人間が歩いているようにみえてくるので不思議である。太い線で力強い生命力はあるが圧迫感はなく、ひたむきに生きる人の人間性や感性、経験がこの一字に見事に表現されている。文字を「書く」から「描く」というこれまでにない現代的な表現方法により、これは文字なのかと疑問を抱かせるほど芸術作品として完成された一字書である。「書家が書を独占しているつもりでいること程、滑稽なことはない。書は万人の芸術である。日常使用している文字によって、誰でも芸術家たり得るに於て、書は芸術の中でも特に勝れたものである。それは丁度原始人における土器の様なものであるのだ。書程、生活の中に生かされ得る極めて簡素な、端的な、しかも深い芸術は、世界に類があるまい。」